水俣病研究会蒐集資料

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解  題

水俣病研究会について

 水俣病研究会は、1969年9月から活動を開始した。前年9月、政府の水俣病原因者についての公式見解発表を受けて、水俣病患者家庭互助会はチッソとの補償交渉に取り組むも進展せず、やむなく第三者に調停を依頼する患者たちと訴訟に踏み切った患者たちに分裂するに至った。
 結成間もない水俣病市民会議は、訴訟派の闘いを支援するために知己を頼って呼びかけ、熊本を拠点に水俣病を告発する会が組織された。しかし、当初、裁判の見通しは確とはしていなかった。そこで市民会議と告発する会は、提訴した以上勝たねばならないという思いから、原告弁護団を支援する研究会をつくる必要があると人捜しに取り組み結成に至ったものである。
 参加メンバーは、市民会議の裁判班を担っていたチッソ労組第1組合員や告発する会、それに大学関係者などから構成された。すでに裁判は始まっており、原告側の主導で裁判を進行させていくためには、訴えの論拠と裏付けを早く提示する必要があった。
 研究会のハードな議論と作業が始まったが、その成果は、1年を待たず『水俣病に対する企業の責任』1970として刊行された。これに携わったメンバーは前書きに記してあるように、有馬澄雄・石牟礼道子・小山和夫・谷共義・田村俊・富樫貞夫・永岡達也・中山善紀・原田正純・半田隆・二塚信・本田啓吉・丸山定巳・宮沢信雄の14名であるがこのうち4名は第1組合員であるため匿名表記となっている。
 第1次訴訟が、原告ペースで進んでいる間にも、川本輝夫さんらの行政不服審査請求やチッソ株主総会への一株運動など新たな行動も生まれた。その時々に研究会に相談が持ちかけられた。その成果の一つは、『認定制度への挑戦』1972として纏められた。
1次訴訟は原告勝訴で終わり、それに続く東京交渉で補償協定がむすばれ、これで一つの区切りがついたと一息入れる間もなく、石牟礼道子さんから話が持ち込まれていた資料集の編集に取りかかった。
 水俣病事件もすでに長期に及んでおり、支援の若者たちのなかには、事件史の理解が心許ない者も出てきているように思われる、そこで事件史の把握に便利な資料集をまとめてもらえないかとのことだった。研究会としては、先の裁判支援で少なからぬ資料を収集していたので、簡単に引き受けてしまったが、それが20数年に及ぶ作業になってしまうとは、当初は思いも及ばなかった。
 事件史総体を纏めるには原資料を改めて収集する必要があり、数年間は、患者・チッソ・漁協・行政・医事関係、それに研究者や支援者などの手許にある資料探索とその整理に追われた。チッソ関係では、幹部の刑事事件で押収された内部文書が貴重な資料として追加された。また、行政関係では直接の閲覧申請とともに、議会事務局の倉庫なども資料源となった。漁協の古い倉庫で、埃にまみれながら資料探しをしたこともあった。早くから単独で調査研究に取り組んでいた宇井純さんやチッソ附属病院院長細川一さんのご家族からの資料の提供もありがたかった。
 『水俣病事件資料集』はようやく1996年に上梓された。多くの時間を費やしたのが解説部分だった。メンバー各人の事件史像があるため、まとめるのに時間がかかってしまった。

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