P08 つれづれ時事寸評24 「特別定額給付金《とアメリカのベーシックインカム 本研究所研究員 向井 洋子 (社会福祉政策史) 新型コロナウィルスと特別定額給付金  「特別定額給付金《は国民一人あたり一〇万円を給付する約一三兆円規模の総務省事業のことである。つまり、新型コロナウィルス対応の行動制限に対する日本政府からの所得保障である。先日、この「特別定額給付金《が私の銀行口座に振り込まれた。  そこで、アメリカのベーシックインカム(BI: Basic Income)をめぐる政治を思い出した。ベーシックインカムとは、所得に関係なく全国民に支払われる所得保障であり、私の博士論文は、1970年代初頭、アメリカの連邦政府が上完全なベーシックインカムを導入しようとして失敗した過程であった(彩流社から2018年出版)。  アメリカの場合、第2次世界大戦後の好景気と同時に、冷戦がはじまり、防衛歳出が空前絶後の伸びをみせるようになった。好景気と軍需産業の恩恵を受けた人々がいた一方で、アメリカの繁栄から取り残された人々もいた。取り残された典型の人は、黒人、女性、先住民、移動労働者であった。これらの人々に光を当て、アメリカ社会に衝撃を与えたのがガルブレイスの『ゆたかな社会』である。 ガルブレイスが描いたアメリカ社会は、まさに「2つのアメリカ《であった。近年の流行り言葉でいえば、「分極化《である。分極化論では、何を「極《とするかで色々な議論ができる。アメリカ政治研究では二大政党が「極《となるし、アメリカ経済研究では所得格差を軸に「極《とつくることができよう。 アメリカのベーシックインカム  さて、この「2つのアメリカ《を統合しようと、ニクソン政権はベーシックインカムを導入しようとしたのであるが、連邦議会で挫折した。その理由を端的にいえば、上院の重鎮である南部出身議員を説得できなかったからだ。アメリカの北部諸州と南部諸州の違いは、地理的文化的なものであるほか、50万人以上の死者をだした南北戦争の歴史にさかのぼることもできる。  では、所得保障をめぐる北部と南部の違いはどのようなものか。そもそもの問題として、所得保障のような社会保障プログラムは、州の権限(合衆国憲法修正第10条)である。そして実際のところ、州によって大きく異なる。それでも、北部諸州と南部諸州で大きく2つに分類できる。  北部諸州では、たとえばシカゴ市のように、自治権をもつ市(municipal)が独自のプログラムを策定してきた。独自プログラムを策定してきた市は、多くの場合、大都市であり、20世紀初頭からアメリカの工業都市として栄えてきたところである。北部の工業都市では、企業が学校・病院・保育所ほか福祉施設を従業員向けに設立運営した一方で、大企業以外で働く労働者向けの福祉プログラムが求められた。これを後追いする形で州プログラムが策定された。こうして、アメリカの北部州では、市プログラムと州プログラム並立する形のところが少なくない状況ができた。  他方で、南部の諸州では所得補償プログラムは乏しい。南北戦争後、大規模な連邦補助金が投じられることがほとんどなくなったものの、温暖な気候の農業州であることから、所得保障がなくても、今すぐ餓死したり凍死したりする恐れがないからである。また、かつてのプランテーションを彷彿させる大規模農園も残っている。いくら貧困であっても、農産物の収穫を手伝う身体的能力があれば、こうした大規模農園で繁忙期に働き、一時的であっても食べ物と寝るところを得ることはできる。  1970年代初頭、南部出身上院議員が先に述べた北部の状況を理解しているはずもなく、「働かざる者、食うべからず《という考え方から離れることもできなかった。そのため、ニクソンの野望は潰えたのである。 アメリカの特別定額給付金から  翻って現在、コロナ禍に際し、アメリカの所得保障はどうしたのであろうか。実は、わが国に先んじて、連邦政府が「特別定額給付金《を支給した。  先にも述べたように、アメリカの社会保障は州の権限であるため、連邦政府は基本的に関わらない。ただし、20世紀半ばに成立した社会保障法の4大プログラム(老齢年金、失業保険、障害年金、生活保護)のうち、老齢年金を連邦政府が管轄している。そして、一般的に、この老齢年金を社会保障(Social Security)と呼ぶ。この老齢年金の保険料支払いの社会保障番号と連邦税の識別番号が紐づけされ、「社会保障カード《というものも存在する。この社会保障番号を使って、連邦政府は新型コロナウィルスに対応する「特別定額給付金《を給付したのである。  このエピソードからわかるように、アメリカの社会福祉の実態は、結構いいかげんなのである。筆者の留学時代、老齢年金を管理する社会保障庁のサーバーが落ちたこともあったし、現在でも時々動かなくなることがあるという。2017年には1億4,300万人分の社会保障番号が漏洩したが、社会保障番号制を廃止するという動きは聞いたことがない。友人のアメリカ人に言わせれば、「便利だから《だという。保険料が払えなかったとしても、連邦税を支払うときに相殺するらしい。また、彼らはこの保険料のことを「税(tax)《とよぶ。政府に徴収されるお金はすべて「税《という認識なのである。  こんなことを学んできたからか、私は、「特別定額給付金《申請をマイナポータルという政府のウェブサイトで行った。申請には5分もかからず、申請後ちょうど2週間で給付された。便利だと思った。  ウィズコロナあるいはアフターコロナの時代、個人情報も含めた私たちの「情報《は、「守るもの《から公共の利益に資する「利活用するもの《へと扱いが変わっていくのであろう。社会福祉にかかわる情報はデリケートなものもあるが、利活用できる情報については積極的に公開かつ利用し、福祉施設で働く人々の負担を軽減できたらよいのではないだろうか。 アメリカ「社会保障カード《