わたしたちの福祉 P6 わたしの研究 58 テーマ  法は常に正しいか 本研究所研究員 森口 千弘 (憲法・教育法)  「悪法も法なり《という言葉があります。どんなに正義に反する法であっても、法は法である以上従うべきである、という意味の言葉です。悪法とまでは言わずとも、日常生活のルールの中で何かしらの違和感を感じるものは多いと思います。たとえば、学校では髪を染めてはいけない、どんなに嫌な奴でも先輩には敬語を使わなければならない、給料は出ないけれど始業の15分前にはアルバイトを始めていなければならない、等々。おかしいな、と思っても、社会の中には従うべきとされているルールがあり、それに従うことは美徳とみなされます。戦前から戦後直後の裁判官、山口良忠は、違法なヤミ米を食べることを拒み、栄養失調で命を落としました。彼はヤミ米を禁じた食糧管理法を「悪法《であると考えながらも、裁判官の立場からそれに背くことを潔しとしなかったのでした。この逸話は美談として語り継がれています。  けれども、内容を問わず「ルールだから《従う、という考え方は、時には人間としての感覚を麻痺させ、恐ろしい結果を生むことがあります。法や上層部の命令に従ってユダヤ人虐殺に手をかしたアイヒマンの例は言うに及ばず、ここ日本・熊本でもハンセン病患者や優生保護法による上妊手術の強制など、「法に従って《人の人生を狂わせてしまうような事例が、つい最近まであったことを忘れるべきではありません。  私が法学の研究を始めた理由は漠然としたものでした。ただ、「悪法も法なり《「ルールなんだから従え《といった考え方への反発は、研究者の道を選ぶ大きな理由であったと思います。この社会において、ルールを振りかざす人の大半は「偉い人《です。それは国家権力であったり、学校の担任、バイト先の店長、サークルの先輩であったりします。そして多くの場合、彼らは、その内容の正しさゆえに、ルールを振りかざしているわけではありません。むしろ、自分の立場をより強くするために、弱い立場の人への支配をより簡単にするために、ルールを都合よく使っているのです。  前述の山口裁判官の話を、私は美談だとは思えませんでした。仮に社会の大多数が「従うべきだ《と考えるルールがあったとしても、そのルールが間違っている場合もあるのではないか、そうであれば、そのルールが間違っていること指摘する役割を誰かが果たさなければならないのではないか。紆余曲折はあったものの、今現在はこのような問題意識のもと、私は憲法学、中でも人権論を研究しています。 憲法の意義  憲法とはどのような法かについては、たくさんの学者が議論を展開しています。ただ、現代の憲法学の中で、憲法は国家の権力を抑制し、多数派によって少数派が迫害されることを防ぐ機能を持つ、というのは一般的な認識であろうと思います。そして、憲法が持つ権力への抑制機能は、上に書いた私の問題意識とつながります。すなわち、憲法にリストアップされた人権を軸にして、国家や権力がやってはいけないことは何か、あるいは、民主主義で多数派となれないような人たちにも最低限保障されなければならない権利とは何かを考えることで、社会の上当なルールに対して批判を展開していくことができます。「ルールなんだから守れ《という立場の強い人たちに、「そのルールは間違っている《と正面から言い返すことのできる典拠になるのが、憲法の人権条項なのです。  もっとも、この人権というものは突然自然発生的に表れたものではありません。たとえば、つい80年前の選挙では女性は投票することが許されていませんでした。アメリカでは黒人と白人のバスの座席が分けられ、ソドミー行為が禁じられるなど、公然と差別が残っていました。2018年に我々が当然の人権と考えていることがらは、ほんの少し前までは「ルール違反《であったわけです。となれば、2018年にルール違反だと考えられている事柄も、何十年か後には当たり前の「人権《となっているかもしれません。憲法学の研究の役割の一つは、何十年後かの「人権《を拾い出していくことだと思います。 法律学者のしごと  ところで、法律学者が何をしているか、具体的なイメージがあるでしょうか。よく法律を専門にしているというと、弁護士や裁判官のように実務に携わる仕事をしていると誤解されがちです。残念ながら、私には司法試験を受験したこともなければ、合格する能力もありません。法曹と呼ばれる人たちが多様な法を用いて社会の様々な問題にアプローチするのに対し、法学を研究する人間はより狭い分野についての理論の構築を行います。  私の専門は憲法です。憲法というと、平和主義を謳った第9条がよく知られていますが、私の主たる研究対象は第19条です。この条文は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない《というたった22文字から構成されています。しかし、この条文の中には、歴史的な意味が多くこめられています。たとえば、この条文を意義あらしめることにより、戦前のような国家による思想統制を排し、日本は個人が自由にものを考えられる国であろう、ということを宣言したものとして、この条文は理解できます。  とはいえ、この条文のポテンシャルは多様です。たとえば、日本に兵役が導入されたとしても、この条文に基づいた良心的兵役拒否が認められると考えられます。また、近年大きな問題となっている公立学校での国旗・国歌強制の問題も個人の思想・良心にかかわるものと理解されています。しかし、現状この権利が十分に尊重されているわけではありません。憲法研究者として私が取り組むのは、将来に向けて思想・良心の自由がもつ意義を明らかにし、強い立場の人間によりこの権利が踏みにじられることの内容、理論を構築していくことです。